ベルリンの壁崩壊25周年

ドイツ分断によって生まれたドイツ民主共和国(DDR=東ドイツ)。

1961年、その国境警備隊がベルリンの舗装道路を壊して石でバリケードを作り、町を横切る有刺鉄線を張りました。そして西ベルリンの周りを取り囲むように、人が乗り越えることのできない3メートルの高さの壁を建設しました。このいわゆる「ベルリンの壁」は、1989年11月9日に崩壊するまで28年もの間存在し続けました。

2014年は、このベルリンの壁崩壊から25周年に当たります。
そこで8月5日から11月9日まで、1989年に起こった重要な出来事、壁崩壊までの道のりを、当時の写真と共にこちらのページで順次紹介・説明します。

Grenzoeffnung_Jubel Brandenburgertor

1989年11月9日

ベルリンの壁崩壊。SEDのシャボウスキー政治局員は、特段の注目点もなく始まった記者会見で、「国外への個人旅行は、条件(渡航 目的および親戚関係)を提示しなくても申請でき、許可は短期間で出される。東ドイツから西ドイツおよび西ベルリンへの出国に対する査証は、どの国境検問所 を経由するものであっても迅速に発行される」という決定を読み上げました。これがテレビで生中継された直後から、連鎖的な反応が起き、「国境が開放された」とは一言も言われていないにもかかわらず、そうした噂が瞬く間に広まり、ベルリンの壁の国境検問所に多くの東ベルリン市民が詰め掛けました。

Am Vormittag des 08.11.1989 meldet die staatliche Nachrichtenagentur ADN der...

1989年11月8日

絶え間ない大規模デモと党員らの不満に押され、ドイツ社会主義統一党(SED)の政治局員は総辞職しました。

Auf dem Berliner Alexanderplatz versammeln sich am 04.11...

1989年11月4日

東ドイツ史上最大の大規模デモが起こりました。約60万人もの市民が警察の許可を受けた大規模デモに参加するために東ベルリンに集合し、政治改革の即時実施を要求しました。

Massenflucht von DDR-Bürgern über die CSSR nach Bayern 1989

1989年11月3日

東ドイツで3度目の国民の大量出国が起こりました。東ドイツ政府の決定に基づき、国民はチェコスロヴァキア社会主義共和国(当時)との国境を越え、そこから何も手続きを踏むことなく西ドイツに入国することが可能となりました。

Montagsdemonstration in Leipzig  - Universität Leipzig

1989年10月30日

SED政権に抗議する人々による数十万人規模のデモが再び行われました。デモでは、新たな改革の要求が掲げられ、自由選挙を求める声も上がりました。

Erich HONECKER, DDR, Politik

1989年10月17日

東ドイツの最高権力者であったエーリヒ・ホーネッカーが権力の座を追われました。建国40周年式典からわずか数日後、 SED政治局は、ホーネッカー解任を会議の議題としたのです。ホーネッカー自身にとっては予想外の出来事でしたが、SED上層部ではすでに以前から進めら れていた計画でした。

Montagsdemo in Leipzig - Archivfoto 1989

1989年10月9日

この日も、東ドイツ各地でSED政権に反対するデモが行われました。ライプツィヒも騒然とした雰囲気に包まれました。月曜恒例の「平和の祈り」に引き続き、大規模な抗議デモが行われ、参加した75000人もの市民が政治改革を求めました。

Militärparade zum 40-j�hrigen Bestehen der DDR

1989年10月7日

ドイツ社会主義統一党(SED)政権は、東ドイツ建国40周年の記念式典を開催しました。国家、特に自らの政党を自画自賛する華々しい催しとなるはずでしたが、振り返ってみると、この日がSEDが自らの権力を大々的に誇示する最後の機会となりました。

DDR Fluechtlinge verlassen Prag per Zug

1989年10月4日

プラハやワルシャワから出国者を乗せた列車の第二陣が、ドレスデンを経由して西ドイツに向いました。駅やホームは出国を決意した東ドイツの人々で溢れかえり、特別列車の運行に遅れが生じました。列車には外から人が入れないよう鍵がかけられていました。

German Unity - Berlin

1990年10月3日

ドイツ各地で「ドイツ統一の日」を祝う式典が催されました。この日、ドイツの憲法である基本法第23条に基づき、「ドイ ツ民主共和国のドイツ連邦共和国への加入」が発効し、東ドイツという国が消滅したのです。

DDR - Wende - Demonstration

1989年10月2日

ライプツィヒでは、1982年9月から毎週月曜日の平和の祈り礼拝が行われてきました。「平和の祈り」に引き続いて開催されるようになった「月曜デモ」がこの日、これまでで最大規模となりました。月曜デモでは、当初は出国の自由を求める声が中心でしたが、次第に政治改革や言論の自由を求める声が高まっていきました。

DDR Fluechtlinge in Prag

1989年10月1日

チェコスロバキアやポーランドに国外脱出した数千人の東ドイツ人が、特別列車で西ドイツへ移動しました。特別列車は、プラハやワルシャワから東ドイツを経由して西ドイツに向かいました。

DDR-�bersiedler in Ungarn

1989年9月11日

ハンガリーは0時0分に内務大臣の命令によって全ての東ドイツ市民のために西側の国境を開放しました。この好機をとらえ、数週間にわたって何万人もの東ドイツ市民がハンガリーへ向かい、オーストリアとの国境を越えて西ドイツへと出国しました。

Oppositionsgruppe "Neues Forum"

1989年9月9日

東ベルリン近郊では、平和運動の活動家が「出発89-新フォーラム」を発足させ、その設立宣言文に署名しました。

1989年9月4日

ライプツィヒのニコライ教会では毎週月曜日に行われる「平和の祈り」の後、初めてデモが行われました。約1,000人もの市民が教会前に集結し、初めて自由の拡大を求めました。

プラハの西ドイツ大使館

1989年8月22日

東ドイツ市民が出国を試みたのは、ハンガリー経由にとどまらず、チェコスロバキアも重要な経由先となりました。

ハンガリー・オーストリア国境に押し寄せた東ドイツ市民

1989年8月19日

ベルリンの壁建設以来、最大の東ドイツ市民の国外脱出が起こった日。何百人もの東ドイツ市民がハンガリーのショプロンで開催された「汎ヨーロッパ・ピクニック」を利用しハンガリー・オーストリア国境を越えて脱出しました。

ハンガリーの西ドイツ大使館に押し寄せる東ドイツ市民

1989年8月13日

ハンガリーのブダペストにある西ドイツ大使館は、出国を希望する大勢の東ドイツ市民が押し寄せたために閉鎖せざるを得ませんでした。また東ベルリンにある西ドイツ常駐代表部にも多くの東ドイツ市民が押し寄せ、窓口業務が一時的に停止されました。

DDR-Fl�chtlinge in Ungarn 1989

1989年8月5日

ドイツ民主共和国(東ドイツ)が初めて国外脱出者に対する公式声明を発表し、この問題の存在を認めました。10万人以上の東ドイツ市民がドイツ連邦共和国(西ドイツ)への出国申請をしたり、プラハ、ブダペスト、ワルシャワにある西ドイツ大使館や、東ベルリンの西ドイツ常駐代表部に保護を求めました。

ベルリンの壁崩壊25周年

壁の上によじ登って喜ぶ東西両ベルリン市民(1989年11月11日)

ベルリンの壁についての基礎知識

東西ドイツ

ドイツを東西に分断した「ベルリンの壁」はなぜ作られたのか等、日本の中・高校生にも分かりやすいようにご説明します。

ベルリンの壁 フォトギャラリー

Liberty Train –The Journey of Christian Bürger

Zug in die Freiheit

30 September 1989: Over 4,000 people squeeze into the gardens of the West German Embassy in Prague. The West German Foreign Minister Hans Dietrich Genscher addresses them: “We’re here today to tell you that today your emigration …”